雨の日にはたまに

のどかにつづる

シブヤで目覚めて

わたしたちの在り処

 

文学を読んでいるあいだ、わたしたちはどこにいるのだろうか?

 

……いや、その、物理的な身体をもつわたしたちは、ソファーに寝そべったり、電車のポールにもたれかかったりしながら文学を読んでいるとして、わたしたちの心はどこにいるのだろうか? 文学を読んでいるあいだ、物語の登場人物の視点で物語の世界を体感していることもあるし、物語の世界に居つつも透明人間のような存在として事の成りゆきを見守っていることもある。いずれにしても、文学を読んでいるあいだ、わたしたちの心は「いま」や「ここ」を離れて、文学の世界にいくらか没入しており、ちっともわからない海外の言葉で書かれた、いちども行ったことのない場所で起こっている出来事を、わがことのようになぞったりしている。

その一方、いまここで「文学を読んでいるわたし」というものもたしかに存在していて、文学の世界にふらふらと入りこんでいってしまった心のことをほほえみながら見守っていたりもする。文学を読んでいるあいだ、物語の世界でおこっている出来事を体験するわたしがいるだけでなく、物語に没入したわたしのことを知覚しているわたしも存在する。

 

『シブヤで目覚めて』

こんなことを考えることになったきっかけは、アンナ・ツィマの『シブヤで目覚めて』だった。プラハの大学で日本文学を専攻するヤナは、大学院生の先輩であるクリーマの助けを借りて、謎の日本人作家「川下清丸」とその小説を研究することになる。博識だけれどやや社会性に欠けるクリーマに気圧されたり反発したりしながら、ヤナとクリーマの距離はだんだん縮まっていく。そのころ日本では、ヤナの<想い>が渋谷に閉じ込められており、いつもハチ公前に戻ってきてしまうループを抜け出して、なんとか自分の存在を人にわかってもらい、チェコに帰りたいと苦心していた。なんとも突飛な状況ではあるけれど、プラハと渋谷でふたつに分裂したヤナの世界は、運命的なきっかけでふとつなぎあわされ、山下清丸の秘密とともに、統合のための糸口が明らかになっていく。

 

あの人はもう来ないという
蜘蛛が衣の裾に
糸を垂らし
肩を落とすなと
囁いているかのように

 

この小説を読みながら、私は、わたしの心はいったいどこにいるのだろうか? ということをよく考えた。日本に留学経験があり日本在住の著者が書くこの物語では、翻訳者の技量もあわさって、もとがチェコ語で書かれたものとは思えないほど、日本の描写や日本文学の話がリアルに展開されていく。そして、大正時代の作家「山下清丸」の書いた小説の文章が、ヤナとクリーマによってチェコ語に訳されていくのにあわせて少しずつ物語中に挟まり、この物語が最初から日本語で書かれているような錯覚をさらに強めていく。没入したわたしの心はこの物語をもともと日本語で書かているかのようになぞり、そうではなくてこれはチェコ語で書かれた海外文学の翻訳なのだと、本を読むわたしが訂正することがしばしばだった。そして、そんな読書体験が、プラハと渋谷に分裂したヤナの状況に重なった。

この小説はチェコの文学新人賞をいくつも受賞しており、内容がそれだけでとてもおもしろいことに折り紙をつけている (私もそのおもしろさを請けあいたい)。肝心なのは、このエントリを読んでいる人の大部分を占めるであろう日本語使用者にとっては、上記のようなメタ認知によって、さらにもう1層の厚みを追加してこの物語を味わえることだ。もしそのようなアドバンテージを持っているのなら、この小説を読んで、それを存分に楽しまない手はない。

 


メタ認知

日本がどう認知されているか、ということをなにやら認知できてしまうように思える点も、この小説の味わいの追加の厚み1層分に含まれるかもしれない。プラハの場面で描かれる、ニンジャ、ピカチュウ、アニメ、ステレオタイプだがあながち間違いでもない日本人像など、ビビッドな「とんでもジャパン」が、渋谷の場面になると、血の通ったリアルな日本に静かに変わっており、その対比に驚くことになる。

村上春樹の小説に出てきそうなモチーフ (乾いた執着、ファンタジーな並行世界、唐突なセックスの誘い) を思いおこしてしまったり、気が強いヤナとオタク風のクリーマの相互作用から生じる心の動きがラノベ風にも解釈できるなと思ってしまったり、本当はそう意図されていないかもしれない日本の風味を勝手に読み取っている自分を認知するのも、なにやらおもしろい読書体験となる。

そしてもうすこし言うと、渋谷をさまようヤナの<想い>が日本人には一切感知してもらえず、ヤナが話しかけても無視されたり意味不明なことを言われるという状況は、日本を訪れた「外国人」の体験のメタファーではないかということも思う。日本の都市部は個人と個人のコミュニケーションを積極的に遮断しているような空気があって、英語を自由に話せる人もそれほど多くはないし、日本を訪れた「外国人」は、きっと物語のなかのヤナのような気分を味わうのではないかと思ったりもする。

物語のもともとのおもしろさに加えて、そうした勝手な深読みができてしまうのも、『シブヤで目覚めて』の奇妙な楽しさなのかもしれない。

 

Advent Calendar

このエントリは、ふくろう (@0wl_man) さんの「海外文学 Advent Calendar 2022」に寄せたものです。せっかくなら、いま私が暮らしているデンマークの大好きな作家のことを書こうかと思ったのですが、それはつまりその作家の作品を含む大部分の小説が日本に置いてあって手元にないということでもあり、わずかに日本から持ってきていた (そして今年読んだなかでもけっこうおもしろかった)『シブヤで目覚めて』について書くことに落ち着いたのでした。

 

プラハのLegion橋から見下ろしたヴルタヴァ川