雨の日にはたまに

のどかにつづる

旅に持っていく本

旅に持っていく本は楽しいものだと思う.日数や,旅先での日々を想像しながら,今の気分とあわせて,どんな本を楽しめそうかなと,積ん読の山を漁る.

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旅先となる国や地域で書かれた本を持っていくのは,オーソドックスな正攻法.『幻のアフリカ』はウガンダの森の中で読み,『高慢と偏見』はヒースローの国際空港で夢中になって読みふけり,そうそう,ガンジス川のほとりの街で,現地の貸本屋にあった『深い河』を午後めいっぱい使って読破したこともあった.

そうした本が書かれた時代や細かな状況は当然違うわけだけれども,旅先の場所にちなんだ本を読んでいると,そうでない本を読む場合と比べて,没入の度合いが違ってくるような気がする.

旅に出かける前に,その国の代表的な作家を探して,そのなかかおもしろそうな作品をみつけてくるのも楽しい.本の装丁や,タイトルやあらすじが与えるイメージは,けっこう重要な情報で,この本は好きかもしれない,と思った場合は,50%くらいの確率で,やっぱり読後に気に入ることが多いような気がする.

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印象的な本の場合には,旅先での記憶と,小説の中の一場面が分かちがたく結びついてしまうことがある.旅先では移動中に本を読むから,結びついているのは,ほとんどが,なにか乗り物に乗っているときの些細な記憶である.

北海道に移動する飛行機のなかで,『赤目四十八瀧心中未遂』のやりきれない閉塞感にがっしりつかまれてしまったし,『わたしを離さないで』のピエロが鮮やかな風船を持って曇天の下を歩いて行く場面は,「多摩モノレール」の逆方向に乗ってしまったある朝と結びついている.京都の太秦のあたりでバスに乗って読んでいたのは,『不滅』のローラとポールをアニェスが見つめる場面だった.『ガダラの豚』の血に飢えた暴力性は,のどかな北の島の暮れかける海を眺めながら.『贖罪』の,すべてがもろもろと崩れていく衝撃は,福岡の空港の夕方で読んだのだったっけ.『緑の家』の砂が吹き荒れる砂漠のイメージは,ドーハから帰国する飛行機の大きな揺れのなかで何度も思い出していた.等々…….

ちなみに,自宅や仕事場ではあまり小説を読まないのだけれど,この文章を書きながら,北千住の5畳の部屋で午前中一気に読んでしまって,その午後はなにも仕事が手につかなかった『ふがいない僕は空を見た』だとか,夕方の仕事場の居室でひとり,深夜まで残って読み切ってしまった『こんな夜更けにバナナかよ』だとかも思い出した.

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旅先で,毎日すこしずつ水飴を舐めるように読む本もある.たとえば,武田百合子の本はそうした目的に最適で,『富士日記』は名古屋で調査をしながら毎晩読み進め,『日日雑記』は調査地で,気分が乗らない晩なんかにちょっとずつ消費していった.

こういう本は,移動中にざざっと読み切ってしまうのがもったいなくて,手荷物ではなくてスーツケースのなかに大事にしまってから旅に出かける.ばたばたした毎日を活力にあふれて過ごし,結局読まないで帰ってくることもあって,精神的なお守りみたいなものかもしれない.

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近頃は,仕事のほうが私を置いてどんどん先に行ってしまうので,必死についていくため,移動中も論文を読んでいたり,ラップトップを開いて作業していたりすることが,ほとんどになってしまった.それはそれで良いのだけれど,そうして小説を読む機会を失っていると,だんだん心が荒んでくることに気づいて,最近は,以前のように,移動中は意図的に仕事をしないようにして,ただ小説に向きあうようにしてみている.

積ん読のなかに魅力的な本があれば,仕事をちょっと差し置いても,その本を早く読みたいと思う.でもそれと同時に,早く読み終わってしまうのはもったいないような気もして,結局その本は家に置いたままにしてしまうこともある.旅の準備をしているほんの短いあいだの判断が,その旅全体をどんな本と共にするかを決定してしまう.あの本を持ってくれば良かった…!と思っても,旅に出てしまったわたしにはどうすることもできず,持ってきた本と向きあうほかない.

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……物語は良い.出張なり調査なり,わたしは現実の旅の途中におり,ちょっと違った日常のなかに在るけれど,小説の舞台もまたそれとは違った日常の中にあって,本を読むわたしは,いくつもの人生を同時に頭の中に思い描いている.

 

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